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『キャプテン・フィリップス』 経済社会の敷衍の先に


CAPTAIN PHILLIPS - Official International Trailer ...

 

 マースク・アラバマ号事件という実際に起こったソマリア海賊問題を下敷きに製作された「キャプテン・フィリップス」。これは単純な「船員」と「海賊」、あるいは「米国市民」と「ソマリア人」などの既存の社会背景に立脚した安易な二項対立にアプローチせず、むしろ実社会と隔離された公海上の空間において、両者の距離感を失効させ、しかし同時に克服不可能な格差が間に横たわる事実を明示するアンビバレンスな一作でした。

 

 

 まず、フィリップス船長を始めとするタンカーの船員は外航海運業という就業構造に組み込まれた「役割」であるというバックボーンが紹介される。ただ仕事を熟してカネを稼ぎ、生計を立てる。日常生活でもごくありふれた経済活動がタンカーでも営まれています。しかしそこにはただ一点、海賊という一般社会にはおよそ似付かわしくないイレギュラーが存在している部分で趣を異にする。船員の「生命」が直接的な危機に晒される情況があるものの根本的な対応策は用意されておらず、また彼らの生命は"賃金"に勘定されていない。

「俺は海賊と戦うだけの給料は貰っていない!」

「君は契約してこのタンカーに乗っている筈だ」

いざ海賊の脅威が現出した最中の、船員とフィリップス船長の応酬がそれを代弁しています。生命に対する喫緊の危機があるにも関わらず、彼らは人間である前に、夫々の役割を内面化した社会の末端構成員に過ぎないと冷淡に突き放される。

 

次に、彼らに呼応する形で海賊が登場します。権力者の民兵組織が小さな村落に現れ、村人に海賊行為を迫る。碌な資本も持ち合わせておらず、他に手段がない以上は略奪で「利益」を上に提供しろ、という訳です。際立った産出資源も無く、貧困な小国。それがソマリアだという背景を伝えつつ、ソマリア人が海賊という蛮行を選択せざるを得ない社会構造が露わになる。事情は違えど「海賊」も経済活動の一つの形態に取り扱われます。米国市民だろうとソマリア人だろうと、経済社会に擦り潰される構成員という立場において懸隔は存在していません。(海賊が必要以上に悪役として設定されておらず、4名の内、画面に鋭い緊張感を充てる粗暴な男ナジェを除いて視聴者は彼らに理解を示せることをここに附記しておきます。

 

そしてその両者を峻別するものもまた「社会」、もとい「資本」というべきでしょうか。劇中ではMTO(英国海運局)やMARAD(連邦海事局)といった効率的な海運と船舶の安全保障を担当する部局、あるいは米海軍といった国家機関が、マースク・アラバマ号と海賊に囚われたフィリップス船長への支援に終始徹します。それらの体制は断るまでもなく洗練された資本の力であり、再びソマリアとの類比がここに浮かび上がる。哨戒機やフリゲート艦などの大質量が画面を占有し、たった一人の米国市民の為に甚大な物量が投入され尽くしている。私達はここに「極大のタンカーと卑小なボート」の当初の構図を顧みることが出来る。

 

結果フィリップス船長は救出され、米海軍に保護されます。極限の状況下からの解放に余韻はなく、事務手続きの如く、極めて淡々と処置が進む。万雷の拍手が鳴り響くことはない。彼に温かい言葉を投げ掛け、人間性の回復を図る役すら不在のまま、彼は嗚咽を漏らし、必死に家族への連絡を請う無機質なエピローグで幕を下ろす(米本土と地続きの「家族」は一貫して不在)。もしこの作品で何らかの非難の対象を用意するとすれば、それは遠近法で炙り出される経済社会そのものでしょうね。単一の相互関係では割り切れない複雑な社会性は個人個人に潜在していますが、フォーマルな秩序化は世界規模で及んでいる。だから海賊は射殺される。個人は細分化・矮小化され、その衝突に際しても関与できる余地は残されていない。フィリップス船長が必死に認めた遺書は、その抵抗として表れる。いやさ、そこを可視化しただけでも本作に十分な評価を与えらえる。