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創作物が固有するオリジナル

>今期のアニメ『とある飛空士への恋歌』を見ていて、
登場する飛空機「エル・アルコン」の紹介をするのにメートルやノットが出てきて「うーん」と思った。

"とある異世界の単位について(さんざん言い尽くされたことだろうが)"
http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20140203



そこに確かに存在する作品の内在的オリジナル。「虚構に侵入する現実の尺度」を指摘するに当たって、まず私達がどうやって作品から"オリジナル"という仮想体を認識しているかを整理しておきましょう。このエントリで明示されているタイトルの(原作)媒体は「小説」ですが、この作品を如何なる手段で認識しますか? 当然、「読む」。そして読む為には文字があり、文字という記号が代理する言語表現が存在します。この時点で、作品から提示された"オリジナル"の認識は、「日本語」という特定の言語体系に依拠していますよね。また、文学作品に限らず、映像作品や絵画なども視野に含め、私達が受け取る主観的な意識体験は、予め設定された名辞にそれぞれ符号させる形で知覚される(「クオリア問題」)。従って"オリジナル"は表現過程において宿るものではないことになります。創作物が固有するオリジナルは、「作品」として表現・伝達される過程において既に現実の尺度での翻訳を受けているのだから。表現において存在しない、ならばオリジナルは作者個人の内観や心的表象に存在すると言える。だが、それを他者に対して十全で提示することが可能なのか? 無論"No"ですね。人の心を並列化でもしない限り、そのような出力はあり得ない。


そこで、「オリジナルとは何なのか」という疑問に立ち返ります。上述したように私達は原理的にオリジナルを認識できない。出力する為に翻訳せざるを得ないからです。しかしそれを厳密に適用すると、あらゆる表現は現実上で歪曲を強いられていることになる。そういった前提が好ましいとは言えません。ならば、「オリジナル」とは「自身の心的表象を他者に提示すべく、その表現手段を選択する手続きの独自性そのもの」と考えればいい。詰まるところ表現の結果にオリジナルを担保できないのであればオリジナルという仮想体は表現手段という現実を包摂すると見るべきで、その両者を有意に峻別しようと試みる必要ありません。オリジナルが現実とのあらゆる関与を拒めない以上は、架空の世界にホモ・サピエンスメートル法が配置されていようと、表現の結果に先立つ選択の結果が"オリジナル"。




極大解釈くさいですが、予防線を張るのも大概面倒。