最近のGBFが物々しい



なんかアイラ・ユルキアイネンがきな臭いキャラになってきましたね。(商材である)ガンプラを主軸に据えてプラモデル製作の愛を謳いつつ、後景では歴代ガンダムシリーズをフィーチャーするガノタにも優しい設計となっている本作。健全なアニメだなぁと思っていたんですが、大会進行に連れて対戦相手との接触・交渉が深化すると途端に鎌首をもたげたよう。
この世界観にあって圧倒的なファンタジー要素は、ガンプラバトルに仮託する政治的事情に対して軟調な態度を取る為のセイフティになってるんですよ。モデラーの全員が全員偏好的なオタクであったり、参画に際して「愛」や「信仰」を要求されたり、そのような当事者間のうちに客体化される規範意識を除去する方策として、「ガンプラバトルに臨む意識は、銘々の社会的・個人的関係によって自由に規定される。フィールドには誠実なゲームさえあればいい」という文法を基に作劇が成されてる。だからガンプラでナンパしてるイタリア男がいたり、地上げ屋ガンプラバトルに応対しても、強ちギャグと処理せずに普遍性を担保していると受け取れるw コウサカ・チナは意中の異性へのアプローチとしてガンプラ製作に手を染めて、キララは商業的要請からガノタという属性を身に付けていますがそこにも批判の余地は全くない。契機がどうであれガンプラバトルに参画するあらゆる動機付けを正当化して「ガンダム」に関与することのハードルを取り払っているから、全てのモデラーは相対化され実に穏当なバトルが出来上がるって感じだったんですよ。当初は



でも最近はその辺がブレてるくさい。レナード兄弟がジオン兵のスケールモデルという、MSと異なる戦闘単位を投入したらいきなり「戦争」呼ばわりでビックリ。ガンプラバトルのアーキテクチャを肉薄するのは結構ですけど、これまで可変機やSDガンダム、MAの登場をスルー(誠実)しておいて「ガンプラバトルに提示される戦闘の構図を序列化します」という表明には違和感が拭えませんね。その為に『戦争』という文脈で援用してるゲスさもある訳ですよ。「ガンプラは自由な発想で作ってもいいんだよ! でもMS同士の戦闘以外は『戦争』だから価値を剥奪するよ!! みんなMSだけでバトってね!!!」って政治的イデオロギーを表明するセイくんを視聴者は追認できるの?w って純粋な疑問。ガンプラバトルに宿る価値って、規定されたトータルデザインから生まれるのではなく、バトルに内在する競技性であった訳でしょう。それを翻して美学めいた規範意識を飛び出してしまったのは愚行じゃないですかね。だってジオン兵とか連邦兵って普通に商品のガンプラに封入されているんですし



あるいはニルス・ニールセンへの非難も共通項ですかね。チナに対して「趣味の迎合、その手段としてのガンプラ!? そんなの間違ってる!」とは言わないセイくんが、打算に因むニルスを激しく非難しちゃってますしね。要するに、予め設定された「理想のガンプラバトルX」に漸近する経過には好ましくない[意志の一つの形態][手段の一つの形態]を排除すべく、その例外項を敵側に設けバトルで打ち破ることで、美意識の発露を達成しているんですよ(しかも結果的に「僕はガンプラバトルが好きだったんだ!」とニルス翻意するしw)。物語のセイフティであった筈のファンタジー要素が、いやらしい欲望の捌け口に採用されているのが気に食わない。そーゆーのは深夜アニメに任せようよw
アイナの背負う不幸な生育歴と不本意なガンプラバトルが、その人間性を回復させるあくまで基点なら、不条理の内面化も吝かでもない。でも実際にはレイジのヒロイズムを称揚する御供でしたよね。私的なファイトスタイルに執着して当人の動機や戦闘を非難してきたのに、ガンプラバトルを盛り立てるヒロイズムが為に薄幸の美少女を動員することには抵抗がない(その要請から生命の危機に駆り出される)。ガンプラがテーマのこの作品で、そもそも『救済』なんてリビドーが要るんですか。やっぱり彼女には自活して欲しいなぁ。肉まんを頬張っていた頃がまぶしい……。