EGOISTの続投を

しかし『刀語』の再放送ではあろうことかカットに次ぐカット、さながら民放の洋画でとても見られたものじゃなかったのに『PSYCHO-PASS』では対照的に追加カットの新装ですよ。あに図らんや、伊藤計劃の映像企画と提携まで。前者に比べると、個人的には腹に据えかねる好待遇ですね。西尾維新虚淵玄の作家性のコンフリクトかな(すっとぼけ






恨み言の述懐おわり。結局disるんですけどねサイコパス。とりあえず犯罪係数とか大層な造語のくせに、それただのバイタルサインじゃねえかって指摘は置いて、問題は常守朱の人間観がちょっと苛立たしいというか、いやらしい欲望が端々に確認できる。彼女は一つの特権性、極限の管理社会にあってポストヒューマンの説話として語られる高次的な人間像を提示するんですが、その特権性は「シビュラシステムによって付与されたもの」というのがミソです。メンタル美人とか、犯罪係数が全く変動しないとか、それらはシビュラの権威を基にする限定的な表象ですしね。有効なパートナーシップを築けると判断したシビュラによってアクセス権まで移譲されるのですが、同時に醜悪なエリーティズムが発動する契機となる。それまで「マス」であった筈の常守朱が、市民社会の構成員と努めてきた彼女が、「今の社会はシビュラ抜きに成り立たない(だからこの事実は伏せておくべき)」なんて言い出すんですよw 私は耳を疑いましたね。つまり、社会を俯瞰的に観測できる完全客観性の視座、その他一般とは明確に区別される特権性を許容すべく、そのポジショニングに大衆を動員し「世界(人間)はまだ不完全だから」と現行社会を追認するどうしようもない傲慢さが立ち現れる。「私はシビュラ様に選別されたから特別だけど、無知蒙昧な大衆にはとてもとても教えられないね。しょうがないね」という慰め、そしてその正当化において「両価的な利害関心を個人の内に処理できるポストヒューマン」という規範化が遂行される。故に人間に対する評価もその距離如何が尺度となり、「いつか誰かがこの部屋の電源を落としにやってくるわ」と宣いながらも自分で電源を落とそうとはしない。つまりはそういうことである。自己に対する信頼感の裏打ちで、人間はまだ私の域に達していないのであるw マスターベーションのプレイも多様化してきたなと思う次第。