暗殺教室の志向する世界観

暗殺教室 1 (ジャンプコミックス)

暗殺教室 1 (ジャンプコミックス)




3年E組の生徒その全てに個別の名前と人格が付与されている事実を踏まえれば、この作品は旧来物語に参加できなかった無名のモブを「落ちこぼれ」に読み替えている、と見えなくもない。なればこその逆襲の物語という叩き台。そういう口実を用意すれば、超人学級としか形容しようのない展開にそれなりの合理性を担保できる。が、実際の外観は悪逆スレスレの瀬戸際で暴れ回る無頼漢、といったところ。当初は社会秩序から疎外されたアウトローの美学を信じられたものの、しかし所詮は中学生の文法でした。




この世で最も権威ある指導者は殺せんせー(主担任)。次点に烏間先生とビッチ先生(教科担任)。あらゆる社会悪をE組生徒自身が内包していて、生徒達の関心はもっぱらクラスメートに示されており、外部はそれらを問題として立ち上げ可視化する舞台装置という位置付け。E組に所属する人間は良い人間、それ以外は悪い人間もしくは価値を認められない人間。E組以外は注目に値しないという自己本位的な世界観を貫いているので「宿敵」に設定されているA組を除き、B~D組はその描写と情報量が最小限に抑えられていますが、これは凡の弱者像を演じるのに邪魔だから、という側面もありますね。まぁつまり作劇が「弱者のレッテルを貼られた強者」という欲望に強く依存している。都合28名に実質的な落ちこぼれが存在していないことが何よりの表象でしょう。随所で見受けられる『私たちは元よりデキる子だし、既存の社会設計がその具体化を阻んでいただけ。ボタンの掛け違えで弱者になるのも辛いね』という逃避文学的な性格をまるで隠そうとしない。なにしろ学力考査においてE組の最下位が学年中位()であるからして、本質的にこの漫画は「落ちこぼれ」を信じていないし、それどころか社会的な劣位性が優位性の裏打ちとして急遽立ち上がるという逆転ホームランの流行思想を採用してますよ。母親の顔色を窺っていたら対人交渉の機微に敏くなりました、とかね。さすおに!(しかし家庭不和から暗殺術の才覚が芽を出すというのは、それはそれで批評性があるw)




週刊少年ジャンプの連載陣ならこの手の稚拙な独我論を"正しい"文法と呼べるのかも知れませんが、いかんせん凶暴であるからして。この自己評価を支持する為に、自分達を落ちこぼれに追い込んだ序列化の機序と、それに関与する人間を攻撃し始めるんですよね。ネウロの頃からその傾向はありましたが、知識人や科学者のバッシングが露骨。E組の脳内における「私たちを差し置いて優等生の評価を受けている連中なんてろくでもない」という文脈に紐付く被害感情が全面に出されていて、それが優等生の解体と否定を促し、A組に「要領を得ない馬鹿」と「人間性すら欠如したクズ」が大量生産される。少なくとも体裁上は強者(重点進学校のトップクラス)であるはずの彼らに「ひどく歪な社会倫理を内面化した哀れな被害者」という眼差しすら向けられる。つまり、後々学生という身分を終えて社会参加する上で彼らは高度な生産活動に足る人材ではないと(自分たちに貼られていた)レッテルを貼り替えている。この序列には何の意味もない。頭のいい私たちを十分に投資せず埋没へ追い込み、一方で馬鹿をのさばらせる極めて非合理的なシステムだということを定期考査や学校行事の場を借りて実証し、既成事実化しているのですよ。同時に「完成された現代人像」への憧憬(自作自演)があり、それら学校内でのギャップを謳ったコントラストが「私たちこそが今求められている人的資源(現代人)だ」というマッチポンプ的な錯覚に発展し、「進路」という恐るべき開放端と結託する訳ですよ。不遜極まるこのレトリックを、学校に留まらず一般社会にまで敷衍させようと試みる一つの革命が満を持して予告された。超人学級より遥かに不穏当で、おぞましい世界観がゴロリと顔を覗かせる。この作品は10年超の長期連載などは考えておらず結末はそう遠くないらしいです。さてその時に見渡す暗殺教室は一体どんなものになっているんでしょうね。わっふるわっふる。