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「山賊のむすめ」から「ヒトのむすめ」へ

『山賊のむすめローニャ』を視野に入れるかどうかで宮崎吾朗の評価には天地の差がひらく。という指摘を目にして、なるほど『ゲド戦記』に対する世間の失望は急速だったのだろうと窺えますね~。恥ずかしながら私は『ゲド戦記』も『コクリコ坂から』も見ていないので、映像作家としての彼の実存を『山賊のむすめローニャ』でしか確認しようがない。とりわけ、大人と子どもを同じ境界に押し込める器量はなかなか。後述するように、それぞれが期待するロールモデルを否定された状態で尚「親」と「子」という固有の立場を肉薄する仕事は、TVシリーズのアニメであっても際立っていますね。地上波放送でないことはちょっと残念ですがw


『山賊のむすめローニャ』はタイトルから了解できるように、略奪を生業とする山賊の頭領マッティスの娘としてローニャが生まれ落ちる瞬間から物語が始まり、彼女の生きる世界は人間社会から隔絶され、文明的イデオロギーに帰依しない原始的な出発点を定められています。彼女の家は即ちマッティス城であり、深い森であり、つまり自然界そのもの。当然、山賊たち人間は森に対して一元的な支配を及ぼす存在ではなく、住処を共にする他の動物と同じく森の構成員に過ぎません。例えば鳥女は非常に攻撃的な脅威の象徴として、灰色小人は災いをもたらす畏怖の象徴として、それぞれ森での性状が描かれていますが、他方で情愛的なきずなを基に(人間とそう変わらない)コミュニティを形成するずんぐり小人や野馬からは、人間も同様に脅威や畏怖の存在として映っている。人間の都合はあくまで人間の都合であって、彼らに何らかの影響を及ぼすところではない。あらゆる意味で森は公平な生活圏だと分かります。ここが本作を言及する上で外せないポイントかなと。

"尋ねもしないで取るのはぼくらだけじゃない。きみの父さんだってやってるだろ?"
"子狐たちは誰のものでもない、自分自身のものさ。"
"それに、あの子たちからすれば、ここはキツネの森だ。"
"それだけじゃない。ここはオオカミの、クマの、オオシカの、野馬の森だ。"
"ワシミミズクの、タカの、カッコウの森だ。カタツムリや、クモや、アリたちの森でもあるんだ。"
"おまけにこれはぼくの森だ。そしてきみの森でもある。山賊娘。"


しかし、山賊の娘として生まれた以上、ローニャを支配する集団規範は山賊のそれです。伝統的と言える略奪行為は法や倫理の"外"にあっても、ローニャ自身は山賊の"内"から脱却することはできない。そういった独特の背景の元、マッティスとローニャとの間で決定的な確執を生む呼び水となったのがビルクですね。ボルカ山賊が城に移り住んで来たことでマッティスとボルカの対立はいっそう激しいものになりますが、ローニャにとってはビルクとの邂逅の契機でした。子どもたちの交流を余所に「山賊」という立場に絡め取られ、相互に森の構成員として共生することを拒絶した彼らは、その瞬間から物語のイレギュラーという色合いを帯びることになる。最終的に城内でビルクへの手酷い折檻を行ったマッティスはローニャから非難されたことで、山賊としての都合を開陳します。

"俺が捕まえたのは城を這い回る蛇っ子で、薄汚い虱で、ちっぽけな野良犬だ。"
"俺は先祖代々受け継いできたこの城を、とうとうさっぱりと綺麗にしてやるんだ。"


そう、マッティスはマッティス山賊という独自の立場を先鋭化させるあまり、人間を人間とも見做さない、生活圏における隣人を一個の生物として尊重する態度すら捨ててひとり横暴に振る舞う暴君になってしまった。こうなってしまってはローニャとしても看過できず、彼女は「地獄の口」を飛び越えるという行為に出ます。地獄の口は、当初ローニャの生誕を讃える福音(落雷)の副産物でしたが、次第にマッティスとボルカの対立を象徴するようになり、今ではマッティスの支配が及ぶ"境界"として、その湛える意味合いを変遷させてきました。ここではローニャの越境行為が、マッティスの行使する強権とその立場、彼がしばしば教化していた伝統的規律を厳しく咎める形になり、結果「俺のローニャ」であることを拒絶した重大なシークエンスであると言えます。これにマッティスは"俺には子どもはいない……"と独り言ちるように呟き、その場を後にして失意の日々を送るように。ちょっと可哀想でしたね。
そして「山賊のむすめ」を拒絶し、野に下って文字通りに森の住人となることで彼女は自然界の価値を吸収してゆくのです。自然界に展開されている様々な動植物の生態が、一種端正な均衡を保っている事実に触れることで、彼女が行動する生活上の営為すべてが自己規定の契機として立ち現れる。マッティスと袂を分かった以上、彼女は他者を支配する人間ではありえない。しかし、動物たちに干渉し、彼らから何らかの利益を頂戴することも避けられない。果たして支配とは、秩序とは、一体何なのか。誰がどのように取り決めて、どういった変化を促すのか。更に言えば、自分たちが呼び習わす「動物」や「森」という言葉自体、ある一定の価値判断を含んでいるのではないか……。(ローニャから「山賊(親)であることに別れを告げられた者」としてのマッティスも、彼女とまったく同様の境遇にある点も付記しておきます。)





種々雑多な生物、社会、立場、感情が錯綜する中で、ローニャが自己の再発見に繋がる決定的な相対化を果たす瞬間があり、恐らくそれが『山賊のむすめローニャ』を代表するハイライトでしょうね。世界が重ねてゆく時間に、自分たちのそれを巻き込みながら前進する子どもたち。世界一かっこいい。