やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。はい。

なんかもう欲望に率直すぎてしょーもなくもあり、それが面白くもあり、俺ガイル。戸部くんが単独で馬鹿なんじゃなくて、八幡の定義するぼっち万能説(の表象でしかありえない世界観)を内面化していないキャラが、総じて「馬鹿」という集合体で区別されちゃってるエリーティズムが依然幅を利かせていて、なんとも香ばしい。1期ラストの相模さんと全く同じで、モブに厳しいアニメとはこういうことか。





イケメン葉山くんはリア充で固められた1軍集団の領導にあくせく働いている、というのが既に矮小化のモノローグ。告白騒動を通じて彼ら1軍集団はそれぞれ人為的なロールプレイと打算によって成立している、という事実が事後的に付与されてて、結局リア充というイデオロギーはぼっち万能説に貢献する存在であり、それこそが葉山くんと戸部くん、海老名さんに科せられた世界観ですねえ。彼らの不幸を自らの利益として還元できるポジションに八幡が居座っているから「早くサークルクラッシュしなさい」という目配せが薄ら見える(助けてハチマえもん!w)。孤独であることを称揚すべく創出されたヒロイック・ファンタジーにおいて、ぼっちとは場を執り成す調整役としての機能をスクールカーストから帰納したアンチヒーローということになってて、ここらへん作家性というか、こういうスクールカーストの価値の否定から出発すればふつう革命志向を帯びるのが王道だと思うんですけど、あえてスクールカーストを解体せず、手前味噌な立場を用意してスクールカーストに自ずから構造化し、世界そのものを歪ませながら前進する世紀末救世主伝説を大マジメにやっているから感動すら覚える。最近どこかで見た作劇と思ったら、サイコパスの常守女史だこれ。「いかがです、この色相。驚きの白さ!」「そして犯罪係数をご覧下さい、なんとunder30!」さながら通販番組のような応酬をある種の権威として許容するアトモスフィア、似てる似てる(違
ここでは八幡は人間社会の病巣と相対する術者のよーなポーズを取っていて、「ま俺はいいけど? でもちょっと穢れちゃったよね俺?(チラッ」とヒロインに事後評価をさらっと要請ww 先述の通りこの作品は周囲の人格を操作し馬鹿を動員することでデキるぼっちを成立させているんですが、この世界観でヒロインという存在はリア充ほど矮小化されてなくて、八幡と同等程度には状況へのメタレベルな理解/認知が許されている。何故かって、八幡を慰める為ですよ。知性を剥奪されたアホモブとは違って、彼女達が事の経緯をしっかり把握し「こんなの見ていられない! おお八幡、あなたはどうして八幡なの?」と過度な客観視を提示することで自己愛ベッタベタのヒロイズムが再生産され、同時に対人交渉の脆弱さとか、世界に対する不信感とかが表明されてなんかすごい勢いで画面に緊張が走るんだけど、いやいや君がひたすらチヤホヤされてるだけwww



あるいは自由主義的レトリックから自己愛ワッショイ。高潔であること・正しくあることに半ば強迫的に執着する雪ノ下雪乃や由比ヶ浜結衣に対して世界の何たるかを説き伏せるってのが毎度の恒例パターン。諦念から世界を覗くというもの。「高潔じゃないし正しくもない自分が要請されているこの世界は地獄だが、しかし、俺達にとってこれ以上の場所があるか!? 他の誰でもない、俺は俺の為にやっているんだぜ!!」
……という口実でスクールカーストの再形成に終始していて、世界観の構築の割には与えられるロマンが些かショボすぎてやっぱり内向的ヒロイズムじゃ暴力性の処理にちょっと困っちゃう。序列意識の反動としてぼっち無双のストーリーが存在する以上、少なからず序列を利己的にイジる必要に迫られる訳で、支配と搾取の加害構造の権化として立ち現れる主人公を英雄として迎えることのあまりの馬鹿馬鹿しさがあるからこそ、しっかりと世界改変ポルノとして扱ってあげないとダメですねやはり。そもそも表題が「"俺の青春ラブコメ"」で、そういうエクスキューズに担保される自己劇化の物語なんだから一度としてガチで嫌われようとしてないし、正味は過剰な文脈で彩られた俺TUEEEE。この作品に投げ掛けるべきは「流石ですお兄様」に準ずるおちょくりスラング。むしろそういうのこそネットのお家芸だし、俺ガイルにそういう流れが出来れば多少マイルドになると思うんですけどねー。






トリアージXと並行して見ればいいか。