ショタ英雄とショタ王子

同人市場で都落ちからのモブレ本が量産されるであろうアルスラーン殿下。田中芳樹荒川弘が捻り出した精一杯の良心がエロいショタ王子として結実したのは尤もなことだが絵面がダンまちとそう変わらない……。ショタショタしい少年性を温存した英雄とはまぁ要するにコペルニクス的転回()なので、例によって序列の逆転が予告されている。王位簒奪者のお父様は脳筋視野狭窄、旺盛な差別意識役満であるからして、その属性と共に物語から退場することが義務付けられており、リア充は爆発しなければならない。悲しいね。





例えば、ダンまちにおけるJRPGを引用したゲームライクな世界観において、「剣と魔法のファンタジー」というフレーズに代表されるようなロマンチシズムの横溢をベル君"だけ"が独占している。それは端的にダンジョンという舞台装置によるもので、ここでは克服すべき未踏の地という一般的な文脈より、有象無象の冒険者達を打算的/即物的な思考様式に染め上げる悪しきバックボーンとして意味するところが大きい。イジメレベルの無理ゲーを強いることで匿名の悪意を大量生産し、世界観のヴィジョンを一種暴力的に書き換え、冒険なんて所詮は金策かそこらであると他ならぬ冒険者が見限る中で冒険活動が承認されていく。かくして世界はチンピラで溢れ返り、ヒロイズムは世界から拒絶される。そして、そうした制約を一切受けないベル君だけが冒険ウェーイ。
つまり、ベル君を経由することでのみ冒険者の権威が相対化される。頭に超がつく独占と搾取の構図。ベル君のシンパか、さもなければチンピラしかない二分法で世界が切り分けられ、それは善悪の基準にも及ぶ。ベル君の敵であることが悪であり、ベル君の味方であることが善なのだ。循環的ではあるが、強くて正しい古強者の御歴々は、彼を英雄として認めればこそ強くて正しい人種として存在していられる。一方でリリはベル君の中にヒロイズムを発見し、誰かの為に戦う人もいるという当たり前の事実に感服させられ、彼を通して世界はまだ捨てたものじゃないと抑圧を解消する。弱きを助け強きを挫く、という生易しい類型に留まらない世界観による庇護と援助の下で、ベル君による変革は留まるところを知らない。俺たちの英雄はこれからだ!






閑話休題アルスラーン世界も価値の倒錯による変革で英雄ワッショイを狙っていて、奴隷解放がそれ(毎週毎週5分置きに繰り返すのやめてw)。けどこのプロットがいかんせん中途半端。階級制度に無頓着が故に差別意識を内面化していないってことが「ぼく平民も大好きだよ。君達はよく尽くしてくれているね。えらいね」→「殿下///」という応酬で繰り返し主張されているんだけど、これって王族→平民という垂直モデルの階級制度を前提した好意なワケで、ある価値の懐疑においてその価値が再生産されているマッチポンプから脱却しきれていない。故に王や英雄のヴィジョンもそのレトリックに留まる範囲でしかロマンを生成することはないっていう。そして殿下の思想に適性を持つ人間だけを物語的快楽のフックにしているから、異端審問官が焚書した際にも周囲が「あらゆる典籍は唯一無二の創造物であり、その喪失は人類にとって多大なる損失である(キリッ」みたいな近代意識丸出しのツッコミを繰り出して、それが劇中で称揚されている。結局この世界観では一つの近代思想、平等主義イデオロギーが広く潜在的に受容されていて、奴隷制度にせよ何にせよ世界設定として公然化していても前近代的社会に対する批判の目配せは最初から用意されているイージーモードすぎるん(けど英雄扱い)。臣下達にしても「まぁいいんじゃね?」程度に首肯してそれで終わりで、ダリューンが奴隷を安価な労働力以上に認識していないことを殿下が諌める、みたいな文明社会を核とする価値観の衝突から止揚する過程を事実上取り下げて、フラットな地平から殿下のマルチチュードが世界を貫く!w
んーロマン不在のままツッコミ芸だけで進めているから肝心なところでアルスラーン殿下をワンオブゼムから差別化できていないのが問題かな。ただ単に王位を脅かす者、利用する者もしくは差別主義者を皆殺しにするのが関の山で、そこから発展がない。ダンまちにしろアルスラーン戦記にしろ、倒錯した英雄像の膨張の中で歪な世界平和が実現し、やったぜ、正義は回復された。と全能感を振り撒くことに終始している点に、英雄譚としての性格を共有しているじゃないですか。世界は善導されなければならないとする不信感ないし使命感、そこで欲望される感覚。そういった負の感情が悪魔合体を遂げた結果として生まれてくる諸作品へのアプローチに迫られて幾年月。いや迫られちゃいないけど。